時代は道家に傾くのだろうか・・・1

八十九です

なんとなくでしか説明できないのですが、コロナ禍の後の生きにくい社会の中で、我々は道家の思想に知らず知らずのうちに影響を受けているのではないか?とか考え始めています。


スティーブン・ホーキング博士、イーロン・マスク、プラトン、荘子、彼らには共通点があります。それぞれが仮想現実について自らの表現で言及していることです。


面白いのが荘子で、彼の逸話に”胡蝶の夢”というものがあります。
荘子は夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいたところパッと目が覚めます。「えー!!俺って蝶になった夢を見てたんか」「いやいや、それとも本当は夢でみた蝶こそが本来の俺で、今の俺は蝶が見ている夢ちゃうんか?」という話です。


まるでマトリックスの原作?という感じですよね。


そしてもう一つ、荘子の思想の中には万物斉同というものもあります。万物は「道:タオ」の観点からみれば等価だという 思想 です。
人間が善悪、正義不正義をならしてみても、その判断の正当性は他者との比較であり、一方が消滅すればもう一方も存立しない。つまりは、善悪は存立の根拠がひとしくて同質的である。それを一体とする絶対なるものが「道」であるという考え方です。


したがって 貴賤 (きせん)などの現実の社会にある礼法や秩序などのすべては、人が自分の都合で作ったもので意味がなく、本来は生死ですら同一であり、生や死も「道」の姿の一面にすぎないという思想なんですね。


この二つの価値観はコロナ禍以降の社会のひずみである”寛容性の無い社会”や”貧富の差による断絶”と”物質欲による旺盛な消費と道徳の欠如”などに有効なのではないのか?と感じているのです。

そこでです!私はしばらく荘子について考えてみようと思います。
では、まずはこちらから


        ”知と不知”
Aさん「ものを見るのに共通の基準がありますか?」
Bさん「そりゃ、なんとも言えないだろう」
Aさん「あんた物知りのくせに、ガッカリだよ」
Bさん「え?そんなにガッカリすることないぞ」
Aさん「おっ!!なんだい」
Bさん「例えばだ、1.人が湿地で暮らせばリューマチになるがドジョウは?
2.人は木の上を恐がるが猿はどうかね?三者の住む場所はちがうんだ。基準あるかね?」
Aさん「あんたの言うとおりみんな基準が違う」
Bさん「そのとおり」

※ものの基準(善悪)は一つではない。人為の基準は「唯一」「絶対」ではない。相対を絶対とすれば「道」は遠のくということ。