時代は道家に傾くのだろうか・・・7

八十九です


時代は道家に傾くのだろうかの七回目で、切り口は”霊魂”です。


さてさて中国では儒教・道教という二つの観点で世の中を理解しているといえるでしょう。

そしてまずは儒教なのですが、儒教はおもに政治が中心です。この世の問題を人間の合理的判断と行動で解決しようとします。ですから死(霊魂を含む)は、人間には解決できない問題なので、それ以上考えようとはしません。


次に道教ですが、政治(合理性)では解決のつかないことがらを、神秘の力で解決しようとします。人間が死んだらどうなるのかや、その先を考えます。人間の魂・魄という非合理な部分をまるごと引き受けているのです。


道教では、 魂魄 すなわち「魂(こん、たましい)」と「魄(はく)」という二つの異なる存在があると考えられていて、魂は 精神 を支える「気」、魄は肉体を支える「気」を指していました。これを合わせて魂魄(こんぱく)といいます。

魂と魄は易の思想と結びつき、 魂は「陽」に属して天に帰し、魄は「陰」に属して地に帰す と考えられていたのです。

そして日本での儒教は江戸時代に「朱子学」として学ばれ、道教は大乗仏教に紛れ込んで「陰陽道」や民間信仰へと形を変えて我我の無意識の中に入り込んでいるのです。

そこでの登場、仏教ですが・・・「霊」とか「霊のたたり」といった話は、釈迦仏教の教義から出ているわけではありません。釈迦仏教の本来の立場は「霊は存在しない」というもので、ようするに小乗の仏教は「霊を説かない」のですね。

なるほどねー、ですが今日の無宗教の人たちに多い、死んだら無になるという考え方は、宗教でいえば釈迦仏教というより「儒教」という現世についての教えに近い気がします。

そして、マルクス主義などの唯物論のイデオロギーでも死んだら無になりますから、これも宗教的虫眼鏡で覗くと儒教的と言えるかもしれません。


ところが「仏教」も「大乗仏教」においては 因果応報の道理 によって、もしも悪いことをして死んだら、それで終わりということにはなりません。


自分のやらかした悪行は自分で刈り取らなければなりません。なにせ目には見えませんが、悪行は不滅の業力となって蓄えられ「必ず何らかの結果」を生じます。


恐ろしいことに・・・もしも死ぬまでに結果が現れなければ、死後に結果が現れます。因果は宇宙の真理ですから死んだら終わりではないのです。



今回はここまで。


荘子ってなあ・・・第七話”ものまねと書いて忘却と読む”

趙国の商人「坊主、どこの国の者だ。なぜ我らの歩みを真似する?」
燕国の子供「面白い歩き方だ。まるで踊っているようだ。一緒に旅していいかな」
趙国の商人「へえ、そりゃ暢気だな。まあ好きにしろや」
燕国の子供「ありがと、これなら旅も辛くない」
     ※三か月後
趙国の商人「ここでお別れだな。結局、我らの真似は出来なかったな」
燕国の子供「うん、でも楽しかったから良いよ。おじさんたち元気でね」

宋国の娘 「ちょっと坊ちゃん。なぜ往来で這ってるの?」

燕国の子供「それが・・・趙国の商人と旅をしたら、歩き方がわからなくなった」


※他人の真似事をしていると、本来持っていた自分の技術さえ忘れる。