時代は道家に傾くのだろうか・・・5


八十九です


時代は道家に傾くのだろうかの五回目で、切り口は”禅”です。


禅の成立と中国思想なんですが・・・”禅”とは?皆さんのお叱りを覚悟で申し上げるのならば、中国仏教の各宗派の中で最も中国化(道家)した仏教なのだと思っています。※ごめんなさい・・・


道教では道家の修養法として「守一」を重んじています。 心を専一にして神に通じるという教えなのだそうですが、その抽象的(または普遍的)作用法は「身の内に守一の対象を思存し、それに精神を集中して純化することによって肉体の上に実効を得る」ということだそうです。

そして仏教である禅にも「守一」は存在していて、その「守一」は初心の禅法ですから、きっと禅観によって無心無我の体得を目標としたのでしょうね。

ようするに仏教(禅)における「守一」は、中華的な現実主義(大乗仏教)がインド的小乗思考(ヨガ等)への転回材料もしくは回帰材料(きっかけ?)として、道教用語を通して「禅」の独自性を明らかにしようとした可能性を感じるわけです。※えーっと、これも前もってごめんんさい。

小乗仏教(インド仏教)は出家者が解脱を目的に修行をします。ですが、この真面目で有益な教えなのですが・・・どれだけ中国の皇帝や一般市民から指示をされていようとも彼らが解脱できるわけではないですもんね。

もともと誰もが釈迦になれるのなら世話はないわけですから中国での大乗仏教は変質を遂げなければならなかった。死後の世界での救済や転生を確約するのみでは、皇帝や一般市民だって「ちょいちょい待った!生きてる間に何かないの?」となりますよね。

ですから「禅」は、つらい現世において「心を整える修行」とはなっていなかった中華仏教(大乗仏教)が、インド的小乗仏教と中華的道家の影響によって「無相」「無住」「無念」の心境である禅定という枠組みを獲得した姿なのではないか・・・とか、勝手に思っているのです。(※これまた怒られそうですが・・・)これは強引に話を形作れば、道家の「守一」が禅の「守一」とともに脈々と東アジアの文化に根付いていった形跡なのではないかと感じるのです。

荘子ってなあ・・・第五話 ”必要ない!?”

Aさん「あんた、南国の越へ商いに行ったんだろ?」
Bさん「ああ、上質の服と帽子をな」
Aさん「そいつぁ儲けただろう。一杯おごってくれ」
Bさん「馬鹿が、儲けなんか出るかよ」
Aさん「どうして?おごるのが嫌なのか」
Bさん「違う違う。越じゃ人は上半身裸だ」
Aさん「うん、暑いもんな」

Bさん「そう、そして全身に入れ墨だよ」
Aさん「そりゃあ、お洒落の基準がちがう!!」
Bさん「だろう、おごってくれ」

※有用と無用は絶対的なものじゃない。宋人に有用な物でも越人には無用になることだってあるさ。