田舎話 1

八十九です


私が幼い頃の日本は高度経済成長の真っ最中、物質文明と戦勝国から押し付けられた教育によって二千年以上かけて積み上げてきた価値観や文化が、都市部を中心に変遷していった時代でした。

私が幼少期を過ごした街は大阪市内のど真ん中、ぺんぺん草一本も生えていないような所でした。今その場所はタワマンが林立していて大阪市内で最も洗練されているお洒落な街としてもてはやされています。

そんな私にとって両親に連れられて田舎に帰るのは、今の子供たちにとってのTDLやUSJみたいなもので、普段は見聞きしない異文化に浸るような感覚だったと思います。

田舎の大人たちが顔を突き合わせて話す不思議話はとても興味深く、それはあの時代のなせる業だったのでしょう。なにせ家庭に一台テレビが普及する前の時代、人々の情報はコミュニティーごとに醸成してゆき、やがて緩やかに伝播していく時代なのです。

これは、そんな時代の長崎の片隅で語られていた「私の一族」の話です。

私の叔父は、一族の中では珍しく公務員にならなかった人でした。中部地方にある自動車メーカーの技術者としてキャリアを重ね、アジアの国々へ技術移転を行って幹部になった人物です。

その叔父が十歳の時に、丸三日間行方不明になったことがありました。戦時中の事ですから子供も焚きつけ用の木くずや薪を探しに山に入りますが、叔父もやはり焚き付け用の薪を探しに行ったらしいのです。海岸線から伸びる山の稜線、視界に入るすべての山林が私の祖母の実家の山林です。叔父は、その屋敷の裏門から続くつづら折りの山道から山中に入ったといいます。

当時、海軍大尉だった私の祖父は非番の日で、帰宅しない息子を心配して祖母の実家に陣取って人を集めたようです。祖父の家と祖母の実家は歩いて数分の場所ですが、裏山への人の出入り口は限られており祖母の実家に陣取る方が都合がよかったのです。

捜索は三つの字(この村の半分程度の規模)の男衆が血眼で叔父を探したようですが見つかりません。そして、とうとう三日目の夜が明けて祖母の実家の大土間で皆が握り飯を食っているときに叔父がふらっと帰ってきたというのです。

その時の様子を叔父の従妹や兄妹(私の叔父・叔母)が目撃していて、盆に集まって親戚が酒を飲めば毎回、必ずその様子を語って聞かせます。その内容は以下の通りです。

1、叔父は焦点の定まらぬ目をしていた。
2、人の言葉を話せなかった。
3、祖母の実家の屋敷内を夢中で歩き回った。
などですが・・・いつも大人たちが口をそろえて興奮する件があります。その話はこのようなものです。

叔父がうろうろしながら屋敷内を歩く姿を見て皆が「これは狐付きだから拝みの小父(おじさん)さんを呼ばねば」となったそうです。

拝みの小父さんはこの時代どこにでもいて、正業を持ちつつ何かあれば呼ばれて来る存在のようです。

屋敷に来た拝みの小父さんは迷わず「おうい、皆で坊主をきつく抱えてから腕を熱湯に突っ込め」と言ったそうです。

暴れる叔父を大人四~五人で抱えながら囲炉裏端に連れてゆき、祖父が叔父の腕を煮立った鍋の中に入れたそうです。なんと煮立った湯の中で腕は火傷することなく、しかも暴れる叔父は奇声を発するだけで熱がっていなかったらしいのです。

拝みの小父さんは「確かに憑いちょるけんど、つまらんモンが入っちょるけんど、まあ、心配せんでよかたい。ちぃっとばかり家ん中ばうろうろさせんね」と言ったそうです。仕方なく周囲の大人は叔父を放したのですが、それを見ていた叔父の兄妹や従妹は恐怖したそうです。そりゃそうでしょう大人が寄ってたかって少年の腕を熱湯に突っ込んだのですから。

それからしばらくすると叔父が玄関の式台の上に立ち、ボーっとした表情で裏山の方へ顔を向けたそうです。すると拝みの小父さんが突然、叔父さんの背中を思いっきり蹴ったそうです。

すると叔父さんが「コーン」とひと鳴きして起き上がり「痛いー」と言って泣き出したそうです。

昭和とはそういう話が山村や海辺にごろごろと転がっていた時代なんですね。