軍荼利明王 気操術 ②(アメブロ過去記事から)

軍荼利明王と引導

八十九ですニヤニヤ

前回は、

妙なビジョンを見た私は竜胆と東大寺の不動堂へ行き、そこにおられた軍荼利明王様像がヘンテコな風に見えました

というお話しでした。

実はこの時の私は、目の前で起こっているいる不思議そのものに対する理解は無いのです。

ですが、なぜ自分たちが東大寺の不動堂へ行く事になったのか?という事については、

だいたい見当がついていたのです。

(ほぼ確信ですが・・・)

とはいうものの、まあ帰りの電車では、まとまらない思慮を引き出しから出しては仕舞い、仕舞っては出すの繰り返しを続けていました。

そして・・・それからは毎晩、姿を見せぬ存在からのレクチャーが始まり、今日まで続いています。

ずいぶん前のブログに書いたと思いますが、私にはふたつのやるべき事があるようです。

一つは理趣経について現代の解釈にあった表現で発信をすること。

二つ目は、自らの両手から出る「気:エネルギー」を使って”気の流の滞っている方の気脈を整え風車をまわす施術”をする

ことです。

なんだかなあ・・・と思いますが、この二つをやる事はすでに決められているようなのです。

ところが私は、これをなかなか受け入れない。

正確には思い出せませんが、三年近くほったらかしにしていると思います。

理由は簡単です。

まずは理趣経ですが・・・理趣経を語る者は、欲望や性欲について正面からぶつからなければならない。

しかしながら私は、その事についてしっかりと発信できる自信がまったくもてなかった。

少なくとも現役の教員が語るべき内容ではないと決めつけていました。

次に「気」です。

「我々は目に見えるものしか信じない」これは地球上に存在する”人類”という種の特性です。

ところが です。

”気 = エネルギー”という存在は目に見えないものなのに、

我々は電気・磁気・水蒸気・空気など、見えないけれどもコントロールされているエネルギーの存在を信じています。

滅茶苦茶な矛盾ですが人類という「種」はそういう矛盾だらけの者達なのです。

おまけに「気」は、目に見える状態になると突然おっかない存在となるのに、我々はその現象を

素直に受け止めてもいるのです。

これはもう支離滅裂です

けれども世の中は、そのように動いている。

さてさて・・・ここで本題です。

現役の高校教師の私が、

「気」という目に見えない力を行使して気脈の乱れや病で苦しんでいる人の気道を整えたとしましょう。

実際に私から施術を受けた人は、目に見えない力が身体を流れることによって、神仏からお借りしているエネルギーの存在を理解するでしょう。

しかしながら施術を受けていない全ての人は”現役の高校教師による詐欺行為”

または、

”現役教師によるハレンチ行為”として世間を賑わせてしまうに違いないと考えていました。

(まあ、今でもですが・・・)

そうこうしているうちに時は流れ、私は60歳を過ぎ、教諭と呼ばれる身上から解き放たれた・・・

しかし考えは変わらない。

いいや、かえたくない。

60歳を過ぎたらぼちぼちに働いてつましく生活してひっそりと生きたい。

今の生活は快適なのですから、リスクの小さな人生を歩みたい。

本心、そう思っていたのです。

すなわち・・・私は逃げを打った。

ですが軍荼利明王様は、一歩を踏み出さない私に引導を渡されたのです。

つづく