魔の存在 3

竜胆です。

以前に魔の存在についての記事をUPしてからも色々考えています。

いったいどういう存在なんやろか。

前回の記事はこちら

魔の存在は、ここひと月ほど、八十九にしょっちゅう声をかけてきていました。

魔の存在はいったいどんな姿でやって来るのでしょう。

八十九によると(人によって変えてくると思われますが‥)八十九の場合は、普通の人間の姿で現れたようです。

知っている人の姿で現れたのではなく、全く知らない人間の姿です。

『オレ、悪魔』と自ら名乗り、普通に話しかけてくる。

礼儀正しく、商談に来ているようなどちらかというとビジネスライクな感じだったそうです。

『一緒にやろうや』

「いや、お前と一緒にやる気はない」と八十九。

『正しい、間違ってるって、それ誰が決める?それってどうなん?』

「いや、おれは“清濁マダラ”でいいと思ってる」

『そうやんなぁ。それがいいよなぁ。なら、一緒にやる?

“あいつが憎いからやっつけたい”“あれが欲しい”とか、要望が叶うで。その代わり代償はあるけどな。』

「いや、いらん」

『え?いらんの⁉︎ビックリや!』

という会話になったそうで、しつこくやって来たそうです。

善と悪、これは見方によって変わるものだと思います。

そもそも、魔の存在とは何なのか?

陰と陽のようにこの世界に両立していると言われます。

じゃあ、“陽”の存在とは何なのか?

精霊さま方は『わしらに声をかける時には「精霊」だけでなく、「陽気な精霊」と声をかけてくれた方が良い、そうではない者もいるからな』とおっしゃられたことを思い出しました。

その時は「ああ、陰キャな精霊さまもいるのね」くらいな受け止めでしたがどうも違うような気がしてきました。

小動物を猛獣が襲い、殺し、食べる。

猛獣が悪いのか?というとそうではなくこれも単なるありようです。

でも魔の存在が単なる“ありよう”で片付けられるものなのか?

ヤラレた小動物の残された家族が恨みに思って復讐を誓う、猛獣が自分の行動を悔やんで落ち込むとか、征服欲が満たされ高らかに笑うなんてことはおそらくないですよね。

人間には感情がある。

A国に攻撃されたB国が復讐をする。

戦争なんて、言わば魔の存在にはご馳走だらけの状態。

“恐怖、憎しみ、恨み、苛立ち、悲しみ”

その“負の感情”に結びついてくる、付け込んでくる。

“負の感情”を持たずにいるのは難しい。

“陽の感情”だったらいいのか?

他責の人で自分の喜びばかりにフィーチャーしている人間、人を傷つけても平気な人はどうなのか?それだと魔の存在は寄って来ないのか?

傷つけた人に対し負の感情を持つ、その人に傷つけられた人にも寄って来そうです。

正義にこだわっているのは人間だけであって、魔の存在にとっては“負のエネルギー”が生まれれば何だって構わないように思います。

何という理不尽な話でしょう!

間違っているのかもしれません。

結論はもちろん出ません。

“魔の存在”についての考察は今日はこの辺で。

引き続き考えていきたいと思っています。

よかったらまたお付き合いください。

このテーマで記事を書くとどうしても記事が重たくなるようです。

最後に笑い飛ばしたいと思います笑

河童ちゃんと一緒に笑いましょう!