時代は道家に傾くのだろうか・・・3

八十九です


時代は道家に傾くのだろうかの三回目です。

切り口は神仙思想ということになります。


道教は多神信仰の宗教です。道教の信仰する神仙は大きく分けて「神」と「仙」の2種類が存在します。


「神」には天神(あまつかみ)、地祇(くにつかみ)、物霊(つくもがみ)、地府神霊、人体神、人鬼の神、などが含まれ先天的存在といえます。


「仙」は仙真を指していて仙人と真人(道の 極致 に 達した 人)を含みます。どちらも後天的に修練を経て道(タオ)を手に入れ強力な神通力と不死の体を手に入れた者を指します。


なんですと!それでは「老子の根本理念である道を得ると仙人になれるのか!!」と大声で叫びたくなりますよね。でも我々は仙人といういう存在を良く知りません。ですが「日本にも誰か”仙人ポイ”人いなかったかなぁ・・・あっ!!」驚きです。そうなんですあの御方が近いかもしれません。神変大菩薩(役行者)様です。


中国文化に詳しくない者にとって神変大菩薩様を想像することはギリギリ許されるでしょう・・・んんっ(--;)許してください。

ちなみに道教の神様は、西洋の神様や日本の八百万の神様と違って、中国の大地や自然に宿っている神々や普通の人間が羽化を経て神になった者も含めて、 不老不死 や道教の術を手に入れて永遠の命を保っているのです。

老子は「道」は根源的なもので実体を持たず、すべてのものは究極的実体としては 、「道:無」に帰るという意味で同一だと語っています。

ですから小賢しい「修行」 を一切排してひたすら流れに身を任せて随順し「無為」を目指しなさいと言われるわけです。

なんか矛盾を感じますよね~( 一一)仙人になる修行って・・・ しかし、この矛盾という大きな袋が道教・老荘思想・道家・神仙思想という「玉」の 一つ一つを包んでいて、その「玉」は「玉」、「袋」は「袋」という効能の使い分けがあってこその中国三大宗教の一つ”道教”なのでしょう。

日本に仏教の経典が伝来した時に「国家神道」などという大そうなものは存在せ ず、この島にいらっしゃった存在は”天津神”国津神”八百万の神”と尊称される霊的存在とアニミズム的”精霊”だけでした。

しかし、単なる比較は無意味としりつつも 中国の神仙と、なんか似ているなあと思うのです。もちろん文化的背景の違いから言えば、その本質は全然違うものと言えます・・・ですが皆さん、面白いでしょう。 本日はここまで<m(_)m>


荘子ってなあ・・・第三話”「西施」は美人!でもなあ”


Aさん「西施(せいし)は美人だぞ。見に行こう」
Bさん「なぜ美人なら見に行く?」
Aさん「お前さん、頭イカレたな」
Bさん「どっちが、なんで西施に群がる」
Aさん「この野郎!!恰好つけやがって」

Bさん「例えばだよ、西施がメダカの群れを覗けばどうなる」
Aさん「お前さん何が言いたい」
Bさん「メダカは西施からいっせいに逃げ出すぞ」


※人間は正しいと思えば「正しい」と言い、間違っていると思えば「間違っている」
と言う。でも正しいと間違いの基準は何かね?